P--1041 P--1042 P--1043 #1御伝鈔 #2上    本願寺聖人親鸞伝絵 上 【1】 それ聖人(親鸞)の俗姓は藤原氏、天児屋根尊、二十一世の苗裔、大織冠 [鎌子内大臣]の玄孫、近衛大将右大臣[贈左大臣]従一位内麿公[後長岡大臣と号 し、あるいは閑院大臣と号す。贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息なり] 六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり。しかあ れば朝廷に仕へて霜雪をも戴き、射山にわしりて栄華をもひらくべかりし人な れども、興法の因うちにきざし、利生の縁ほかに催ししによりて、九歳の春の ころ、阿伯従三位範綱卿[ときに従四位上前若狭守、後白河上皇の近臣なり、上 人(親鸞)の養父]前大僧正[慈円慈鎮和尚これなり、法性寺殿御息、月輪殿長兄] の貴坊へあひ具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき。範宴少納言公と号 す。それよりこのかた、しばしば南岳・天台の玄風を訪ひて、ひろく三観仏乗 の理を達し、とこしなへに楞厳横川の余流を湛へて、ふかく四教円融の義に P--1044 あきらかなり。 【2】 第二段  建仁第一の暦春のころ[上人(親鸞)二十九歳]隠遁の志にひかれて、源空 聖人の吉水の禅房にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたな くして、難行の小路迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真 宗紹隆の大祖聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめて、こ れをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入 の真心を決定しましましけり。 【3】 第三段  建仁三年[癸亥]四月五日の夜寅の時、上人(親鸞)夢想の告げましましき。 かの『記』にいはく、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白 衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信(親鸞)に告命しての たまはく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導 生極楽」といへり。救世菩薩、善信にのたまはく、「これはこれわが誓願な り。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々。その P--1045 とき善信夢のうちにありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨々たる岳 山あり。その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、 この文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して説ききかしめをはるとお ぼえて、夢さめをはりぬと云々。つらつらこの記録を披きてかの夢想を案ずる に、ひとへに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。しかあれば聖人(親鸞)、 後の時仰せられてのたまはく、「仏教むかし西天(印度)よりおこりて、経論い ま東土(日本)に伝はる。これひとへに上宮太子(聖徳太子)の広徳、山よりも たかく海よりもふかし。わが朝欽明天皇の御宇に、これをわたされしにより て、すなはち浄土の正依経論等このときに来至す。儲君(聖徳太子)もし厚恩 を施したまはずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。救世菩薩はすなはち 儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすと ころなり。そもそもまた大師聖人[源空]もし流刑に処せられたまはずは、わ れまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか 辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり。大師聖人すなはち勢至の化 身、太子また観音の垂迹なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の P--1046 本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんな り。これしかしながら聖者の教誨によりて、さらに愚昧の今案をかまへず、か の二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯りて脇士に事 ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」と云々。かるがゆゑに 上人親鸞、傍らに皇太子(聖徳太子)を崇めたまふ。けだしこれ仏法弘通のお ほいなる恩を謝せんがためなり。 【4】 第四段  建長八年[丙辰]二月九日の夜寅の時、釈蓮位夢想の告げにいはく、聖徳 太子、親鸞上人を礼したてまつりてのたまはく、「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙 教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也」。しかれば祖師上人 (親鸞)は、弥陀如来の化身にてましますといふことあきらかなり。 【5】 第五段  黒谷の先徳[源空]在世のむかし、矜哀のあまり、あるときは恩許を蒙りて 製作を見写し、あるときは真筆を下して名字を書きたまはす。すなはち『顕浄 土方便化身土文類』の六にのたまはく、[親鸞上人撰述]「しかるに愚禿釈鸞、 P--1047 建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰し、元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて 『選択』(選択集)を書く。おなじき年初夏中旬第四日、『選択本願念仏集』 の内題の字、ならびに〈南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本〉と、〈釈綽空 (親鸞)〉と、空(源空)の真筆をもつてこれを書かしめたまひ、おなじき日、 空の真影申し預かり、図画したてまつる。おなじき二年、閏七月下旬第九日、 真影の銘は真筆をもつて、〈南無阿弥陀仏〉と〈若我成仏十方衆生 称我名 号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生 称念必得往生〉の真文とを書かしめたまひ、また夢の告げによりて綽空の字 を改めて、おなじき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはりぬ。本師 聖人(源空)、今年七旬三の御歳なり。『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪 殿兼実、法名円照]の教命によりて選集せしめたまふところなり。真宗の簡要、 念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭りやすし、まことにこれ希有最勝の 華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉り、その教誨を蒙るの人、千万な りといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつてか たし。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画す。これ専念正業の徳なり、 P--1048 これ決定往生の徴なり。よつて悲喜の涙を抑へて、由来の縁を註す」と云々。 【6】 第六段  おほよそ源空聖人在生のいにしへ、他力往生の旨をひろめたまひしに、世 あまねくこれに挙り、人ことごとくこれに帰しき。紫禁・青宮の政を重くす る砌にも、まづ黄金樹林の萼にこころをかけ、三槐・九棘の道をただしくす る家にも、ただちに四十八願の月をもてあそぶ。しかのみならず戎狄の輩、 黎民の類、これを仰ぎ、これを貴びずといふことなし。貴賤、轅をめぐらし、 門前、市をなす。常随昵近の緇徒その数あり、すべて三百八十余人と云々。 しかりといへども、親りその化をうけ、ねんごろにその誨をまもる族、はな はだまれなり。わづかに五六輩にだにもたらず。善信聖人(親鸞)、あるとき申 したまはく、「予、難行道を閣きて易行道にうつり、聖道門を遁れて浄土門に 入りしよりこのかた、芳命をかうぶるにあらずよりは、あに出離解脱の良因を 蓄へんや。よろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。しかるに同 室の好を結びて、ともに一師の誨を仰ぐ輩、これおほしといへども、真実に報 土得生の信心を成じたらんこと、自他おなじくしりがたし。かるがゆゑに、か P--1049 つは当来の親友たるほどをもしり、かつは浮生の思出ともしはんべらんがため に、御弟子参集の砌にして、出言つかうまつりて、面々の意趣をも試みんとお もふ所望あり」と云々。大師聖人(源空)のたまはく、「この条もつともしかる べし、すなはち明日人々来臨のとき仰せられ出すべし」と。しかるに翌日集会 のところに、上人[親鸞]のたまはく、「今日は信不退・行不退の御座を両方 にわかたるべきなり、いづれの座につきたまふべしとも、おのおの示したま へ」と。そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。ときに法印大和 尚位聖覚、ならびに釈信空上人法蓮、「信不退の御座に着くべし」と云々。 つぎに沙弥法力[熊谷直実入道]遅参して申していはく、「善信御房の御執筆な にごとぞや」と。善信上人のたまはく、「信不退・行不退の座をわけらるるな り」と。法力房申していはく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にま ゐるべし」と云々。よつてこれを書き載せたまふ。ここに数百人の門徒群居す といへども、さらに一言をのぶる人なし。これおそらくは自力の迷心に拘はり て、金剛の真信に昏きがいたすところか。人みな無音のあひだ、執筆上人[親 鸞]自名を載せたまふ。ややしばらくありて大師聖人仰せられてのたまはく、 P--1050 「源空も信不退の座につらなりはんべるべし」と。そのとき門葉、あるいは屈 敬の気をあらはし、あるいは鬱悔の色をふくめり。 【7】 第七段  上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・ 勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべる ことありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかも かはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびと とがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるるこ といはれなし、いかでかひとしかるべき」と。善信申していはく、「などかひと しと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、ま ことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のこ とわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人 の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆゑに ひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師 聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にと P--1051 りてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心 は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房 の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるに あらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へは よもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面 面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。 【8】 第八段  御弟子入西房、上人[親鸞]の真影を写したてまつらんとおもふこころざし ありて、日ごろをふるところに、上人そのこころざしあることをかがみて仰せ られてのたまはく、「定禅法橋[七条辺に居住]に写さしむべし」と。入西房、 鑑察の旨を随喜して、すなはちかの法橋を召請す。定禅左右なくまゐりぬ。 すなはち尊顔に向かひたてまつりて申していはく、「去夜、奇特の霊夢をなん 感ずるところなり。その夢のうちに拝したてまつるところの聖僧の面像、いま 向かひたてまつる容貌に、すこしもたがふところなし」といひて、たちまちに 随喜感歎の色ふかくして、みづからその夢を語る。貴僧二人来入す。一人の僧 P--1052 のたまはく、「この化僧の真影を写さしめんとおもふこころざしあり。ねがは くは禅下筆をくだすべし」と。定禅問ひていはく、「かの化僧たれびとぞや」。 件の僧のいはく、「善光寺の本願の御房これなり」と。ここに定禅掌を合 はせ跪きて、夢のうちにおもふやう、さては生身の弥陀如来にこそと、身の 毛よだちて恭敬尊重をいたす。また、「御ぐしばかりを写されんに足りぬべ し」と云々。かくのごとく問答往復して夢さめをはりぬ。しかるにいまこの貴 坊にまゐりてみたてまつる尊容、夢のうちの聖僧にすこしもたがはずとて、随 喜のあまり涙を流す。しかれば「夢にまかすべし」とて、いまも御ぐしばかり を写したてまつりけり。夢想は仁治三年九月二十日の夜なり。つらつらこの奇 瑞をおもふに、聖人(親鸞)、弥陀如来の来現といふこと炳焉なり。しかればす なはち、弘通したまふ教行、おそらくは弥陀の直説といひつべし。あきらか に無漏の慧灯をかかげて、とほく濁世の迷闇を晴らし、あまねく甘露の法雨を そそぎて、はるかに枯渇の凡惑を潤さんがためなりと。仰ぐべし、信ずべし。 P--1053 #2下    本願寺聖人親鸞伝絵 下 【9】 第一段  浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。これ空師(源空)の所為なりとて、た ちまちに罪科せらるべきよし、南北の碩才憤りまうしけり。『顕化身土文類』 の六にいはく、「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、浄 土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸 を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもつ て興福寺の学徒、太上天皇[諱尊成、後鳥羽院と号す]今上[諱為仁、土御門院と 号す]聖暦、承元丁卯歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下法に背き義 に違し、忿りをなし怨を結ぶ。これによりて真宗興隆の大祖源空法師ならび に門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく死罪に坐す。あるいは僧の儀を改 め、姓名を賜ひて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあら P--1054 ず、俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師ならびに弟子等、諸 方の辺州に坐して五年の居諸を経たり」と云々。空聖人罪名藤井元彦、配所 土佐国[幡多]鸞聖人(親鸞)罪名藤井善信、配所越後国[国府]このほか門徒、 死罪流罪みなこれを略す。皇帝[諱守成、佐渡院と号す]聖代、建暦辛未歳、 子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもつて勅免。このとき聖人右のごと く禿の字を書きて奏聞したまふに、陛下叡感をくだし、侍臣おほきに褒美す。 勅免ありといへども、かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したま ひけり。 【10】 第二段  聖人(親鸞)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷といふところに隠居 したまふ。幽棲を占むといへども道俗あとをたづね、蓬戸を閉づといへども貴 賤ちまたにあふる。仏法弘通の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまちに 満足す。このとき聖人仰せられてのたまはく、「救世菩薩の告命を受けしいに しへの夢、すでにいま符合せり」と。 【11】 第三段 P--1055  聖人(親鸞)常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の 輩は少なく、信順の族はおほし。しかるに一人の僧[山臥と云々]ありて、や やもすれば仏法に怨をなしつつ、結句害心をさしはさみて、聖人をよりよりう かがひたてまつる。聖人板敷山といふ深山をつねに往反したまひけるに、か の山にして度々あひまつといへども、さらにその節をとげず。つらつらことの 参差を案ずるに、すこぶる奇特のおもひあり。よつて聖人に謁せんとおもふこ ころつきて、禅室にゆきて尋ねまうすに、上人左右なく出であひたまひけり。 すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後 悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱を述すと いへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、 頭巾をとり、柿の衣をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐をとげき。不 思議なりしことなり。すなはち明法房これなり。上人(親鸞)これをつけたま ひき。 【12】 第四段  聖人(親鸞)東関の堺を出でて、華城の路におもむきましましけり。ある日晩 P--1056 陰におよんで箱根の嶮阻にかかりつつ、はるかに行客の蹤を送りて、やうやく 人屋の枢にちかづくに、夜もすでに暁更におよんで、月もはや孤嶺にかたぶき ぬ。ときに聖人歩み寄りつつ案内したまふに、まことに齢傾きたる翁のうる はしく装束したるが、いとこととなく出であひたてまつりていふやう、「社廟 ちかき所のならひ、巫どもの終夜あそびしはんべるに、翁もまじはりつるが、 いまなんいささか仮寝はんべるとおもふほどに、夢にもあらず、うつつにもあ らで、権現仰せられていはく、〈ただいまわれ尊敬をいたすべき客人、この路 を過ぎたまふべきことあり、かならず慇懃の忠節を抽んで、ことに丁寧の饗応 をまうくべし〉と云々。示現いまだ覚めをはらざるに、貴僧忽爾として影向し たまへり。なんぞただ人にましまさん。神勅これ炳焉なり、感応もつとも恭敬 すべし」といひて、尊重屈請したてまつりて、さまざまに飯食を粧ひ、いろ いろに珍味を調へけり。 【13】 第五段  聖人(親鸞)故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々夢のごとし、幻のごと し。長安・洛陽の棲も跡をとどむるに懶しとて、扶風馮翊ところどころに移住 P--1057 したまひき。五条西洞院わたり、これ一つの勝地なりとて、しばらく居を占 めたまふ。このごろ、いにしへ口決を伝へ、面受をとげし門徒等、おのおの好 を慕ひ、路を尋ねて参集したまひけり。そのころ常陸国那荷西郡大部郷に、 平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓を信じて、もつぱらふたごころなか りき。しかるにあるとき、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、 ことのよしを尋ねまうさんがために、聖人へまゐりたるに、仰せられてのたま はく、「それ聖教万差なり、いづれも機に相応すれば巨益あり。ただし末法の 今の時、聖道門の修行においては成ずべからず。すなはち〈我末法時中億々衆 生 起行修道未有一人得者〉(安楽集・上)といひ、〈唯有浄土一門可通入路〉 (同・上)と云々。これみな経・釈の明文、如来の金言なり。しかるにいま唯有 浄土の真説について、かたじけなくかの三国の祖師、おのおのこの一宗を興行 す。このゆゑに愚禿すすむるところさらに私なし。しかるに一向専念の義は 往生の肝腑、自宗の骨目なり。すなはち三経に隠顕ありといへども、文といひ 義といひ、ともにもつてあきらかなるをや。『大経』の三輩にも一向とすすめ て、流通にはこれを弥勒に付属し、『観経』の九品にもしばらく三心と説きて、 P--1058 これまた阿難に付属す、『小経』の一心つひに諸仏これを証誠す。これによ りて論主(天親)一心と判じ、和尚(善導)一向と釈す。しかればすなはち、い づれの文によるとも一向専念の義を立すべからざるぞや。証誠殿の本地すな はちいまの教主(阿弥陀仏)なり。かるがゆゑに、とてもかくても衆生に結縁 の志ふかきによりて、和光の垂迹を留めたまふ。垂迹を留むる本意、ただ 結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば本地の誓願を信じて一向 に念仏をこととせん輩、公務にもしたがひ、領主にも駈仕して、その霊地をふ み、その社廟に詣せんこと、さらに自心の発起するところにあらず。しかれば 垂迹において内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべ からず。ただ本地の誓約にまかすべし、あなかしこ、あなかしこ。神威をかろ しむるにあらず、ゆめゆめ冥眦をめぐらしたまふべからず」と云々。これによ りて平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整ふる儀なし。ただ常没の凡情に したがひて、さらに不浄をも刷ふことなし。行住坐臥に本願を仰ぎ、造次 顛沛に師教をまもるに、はたして無為に参着の夜、件の男夢に告げていはく、 証誠殿の扉を排きて、衣冠ただしき俗人仰せられていはく、「なんぢ、なん P--1059 ぞわれを忽緒して汚穢不浄にして参詣するや」と。そのときかの俗人に対座し て、聖人忽爾としてまみえたまふ。その詞にのたまはく、「かれは善信(親鸞) が訓によりて念仏するものなり」と云々。ここに俗人笏をただしくして、こ とに敬屈の礼を著しつつ、かさねて述ぶるところなしとみるほどに、夢さめを はりぬ。おほよそ奇異のおもひをなすこと、いふべからず。下向ののち、貴坊 にまゐりて、くはしくこの旨を申すに、聖人「そのことなり」とのたまふ。こ れまた不思議のことなりかし。 【14】 第六段  聖人(親鸞)弘長二歳[壬戌]仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。 それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に 余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八 日[午時]頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。とき に頽齢九旬にみちたまふ。禅房は長安馮翊の辺[押小路の南、万里小路より東] なれば、はるかに河東の路を歴て、洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁 寺に葬したてまつる。遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷 P--1060 にこれををさめをはりぬ。しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おの おの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふこ となし。 【15】 第七段  文永九年冬のころ、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、お なじき麓よりなほ西、吉水の北の辺に遺骨を掘り渡して仏閣を立て、影像を安 ず。このときに当りて、聖人(親鸞)相伝の宗義いよいよ興じ、遺訓ますます 盛りなること、すこぶる在世の昔に超えたり。すべて門葉国郡に充満し、末流 処々に遍布して、幾千万といふことをしらず。その稟教をおもくしてかの報謝 を抽んづる輩、緇素・老少、面々に歩みを運んで年々廟堂に詣す。おほよそ 聖人在生のあひだ、奇特これおほしといへども羅縷に遑あらず。しかしなが らこれを略するところなり。 #2奥書  [奥書にいはく]    [右縁起図画の志、ひとへに知恩報徳のためにして戯論狂言のためにあらず。あま   つさへまた紫毫を染めて翰林を拾ふ。その体もつとも拙し、その詞これいやし。冥に P--1061   付け顕に付け、痛みあり恥あり。しかりといへども、ただ後見賢者の取捨を憑みて、   当時愚案の&M035270;謬を顧みることなきならんのみ。]    [時に永仁第三の暦、応鐘中旬第二天、&M013952;時に至りて草書の篇を終へをはりぬ。]                     [画工 法眼浄賀 号康楽寺]    [暦応二歳己卯四月二十四日、ある本をもつてにはかにこれを書写したてまつる。   先年愚筆ののち、一本所持のところ、世上に闘乱のあひだ炎上の刻、焼失し行方知れ   ず。しかるにいま慮らず荒本を得て記し、これを留むるものなり。]      [康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。]                    [桑門 釈宗昭]                    [画工 大法師宗舜 康楽寺弟子] P--1062